富士登山道の吉田口の起点「北口本宮冨士浅間神社」
富士山信仰と深い結びつきを持ちパワースポットとしても有名です

北口本宮冨士浅間神社


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北口本宮冨士浅間神社
  • 富士登山道の吉田口の起点
  • 富士山信仰と深い結びつきを持つ富士浅間神社の一つ
  • 日本武尊とゆかりのあるパワースポット

「北口本宮冨士浅間神社」はその名の通り、富士山信仰と深い結びつきを持つ富士浅間神社の一つで、富士登山道の吉田口の起点となります。
ご祭神は、火山鎮護の神でもある木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)のほか、夫の彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)、父親の大山祇命(おおやまづみのみこと)が祀られています。
また、ここは日本神話の英雄・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)ゆかりの場所でもあります。
景行天皇の命を受けた日本武尊が東国を平定した帰り、「大塚丘(おおつかやま)」で富士山をご遥拝しました。
そのとき日本武尊は「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と語り、里の人々がその地に鳥居を建てました。
その後、788(延暦7)年に甲斐守・紀豊庭朝臣が現代の境内に社殿を造営したのが、「北口本宮富士浅間神社」の始まりとされています。

北口本宮冨士浅間神社の歴史

110年
(景行天皇40年)
日本武尊が大塚丘で富士山の神霊を御遥拝したのを受け、里人がその地に鳥居を建立
788年
(延暦7年)
度重なる富士山の噴火を鎮めるため、甲斐守紀豊庭(きのとよひろ)が現在の位置に浅間の大神を奉る神前を建て、大塚の丘には日本武尊神霊をお祀りする
1561年
(永禄4年)
武田信玄公が川中島合戦の戦勝を祈願して「東宮本殿」を造営
1594年
(文禄3年)
谷村城主の浅野左右衛門佐が「西宮本殿」を造営
1615年
(元和元年)
谷村城主の鳥居土佐守成次が「本殿」を造営
戦国末期 富士行者の長谷川角行は、富士を万物の産みの親とする独自の教理を確立
庶民が構成する近世富士講の基礎をつくる
1734年
(享保19年)
村上光清が荒廃していた社殿を1734年から約11年かけて再興
今に至る境内主要施設の殆どがこのときに整備される
江戸時代以降 「講」の仕組みが成立し、「冨士講」が大流行
最盛期には周辺に御師の家が、86軒も立ち並ぶ
1869年
(明治2年)
1868(明治元)年に明治政府によって出された神仏分離令により、仏教に関わる堂塔が撤去される
2013年
(平成25年)
富士山世界文化遺産の構成資産として登録される

吉田の火祭り

日本三奇祭の1つにも数えられる「吉田の火祭り」は、この「北口本宮冨士浅間神社」と、その境内にある「諏訪神社」のお祭りとして行われます。
正式には「鎮火祭」といい、7月1日の富士山の山開きに対し、夏山登山の終わりを告げる祭りとして毎年8月26日〜27日の2日にわたって行われます。
26日の夜には、高さ約3ⅿの大きな松明70本余りが点火され、通りが炎で赤く染まる光景は見応えがあり、毎年多くの方が訪れます。

8/26夜 金鳥居から北口本宮富士浅間神社にかけて、約1kmにおよぶ本町通りの沿道で、高さ約3mの大松明70本~80本が焚き上げられる
8/27夜 境内に戻った神輿の後に従い「すすきの玉串」を持って高天原を廻り、無病息災を願う
両日 浅間神社の三柱と諏訪神社の二柱の乗る「明神神輿」、「御影神輿」の神輿が渡御する
 

現地レポート(前編)

国道138号線沿いに建つ第一鳥居が、「北口本宮冨士浅間神社」の入口となります。

北口本宮冨士浅間神社 第一鳥居

この鳥居の扁額には「冨士山」と書かれていますが、よぉ~く見ると、ウ冠の「富士」ではなくワ冠「冨士」が使われています。
その理由については諸説あります。

  • 御山の上に人は立てない
    ウ冠の点を人に見立て、本来なら禁足地で、人が見下ろすのではなく見上げる尊い山であることを表している
  • 神は見えない
    ウ冠の点を神に見立て、神は尊く、その存在は目に見えないことを表している
  • 山頂は神域
    ウ冠の点を山頂に見立て、点の示す山域は神の土地である神域であることを表している

どれも思わず納得してしまう理由です。

北口本宮冨士浅間神社 第一鳥居 扁額

参道

鳥居の先は、樹齢数百年の杉や檜が両脇を覆う参道です。
両側には、ズラッと並ぶ石灯籠。
厳かな雰囲気が漂います。
この石灯籠は、富士講6世の村上光清(こうせい)が中心となった富士講中が1735(享保20)年から1756(宝暦6)年にかけて寄進したものだそうです。

北口本宮冨士浅間神社 参道

石灯籠には、村上光清(1683-1759)の「卍」の講印。
村上光清は、当時、痛みが進んでいた北口本宮冨士浅間神社の復興に尽力した富士講の指導者です。
主に大名や豪商などの上層階級から支持され、「大名光清」と呼ばれていました。
それに対して、同時代の食行身禄(じきぎょうみろく・1671-1733)は江戸庶民から熱狂的に支持され、「乞食身禄」と呼ばれていました。
対照的な2人でしたが、この両者の活動によって富士講は関東で最盛期を迎えるようになります。

講印 (こういん)
富士山を信仰する地域ごとの集まりである富士講ごとに設けられたシンボルマーク(家紋のようなもの)

北口本宮冨士浅間神社 石灯籠 村上光清の講印

苔が覆った石灯籠が、その歴史の深さを物語っています。

北口本宮冨士浅間神社 石灯籠

角行(かくぎょう)の立行石(たちぎょういし)

参道の途中には、国指定史跡の「角行の立行石」があります。
1610(慶長15)年、富士講の開祖である角行(かくぎょう)が極寒の中、裸でこの岩の上に30日間つま先立ちする荒行を行ったと云われています。
里人の勧めでやっと行を止めたときには、全身から血を噴きだしていたそうです。
当時、角行は69歳。
まさに、想像を絶する超人ですね。
角行は他にも、富士登頂128回、不眠の大行18,800日、断食300日などの苦行を成就したと云われています。

北口本宮冨士浅間神社 角行の立行石

仁王門礎石

「立行石」の近くには「仁王門礎石」。
神仏習合の時代には、この「北口本宮冨士浅間神社」にも三重塔や鐘楼などの堂塔がありました。
しかし、1868(明治1)年、明治政府によって出された神仏分離令によって、それらは撤去されてしまいました。
ここに建っていた軒高約11m、梁間約5.5mの仁王門も取り払われましたが、幸いにして礎石だけは難を逃れることができ残っています。
神社と寺院が共存していた時代の貴重な史跡です。

北口本宮冨士浅間神社 仁王門礎石

禊川手前の左手には、お手洗いがあります。

北口本宮冨士浅間神社 お手洗い

お手洗い手前、右手にある道を進んで行くと、バスが停められる大きな駐車場やほうとうが名物のお食事処「浅間茶屋」があります。

北口本宮冨士浅間神社 お手洗い前

世界遺産の構成資産であることを示すプレートは、禊川を渡る手前の右手。

北口本宮冨士浅間神社

「大鳥居」手前の禊川は、上吉田地区・通称「御師の町」の各家に流れる「ヤーナ川」へと繋がります。

北口本宮冨士浅間神社 世界遺産

大鳥居

禊川の先にはドーンッ!とドでかい「大鳥居」。
高さは約15m。
木造では、国内第一の大きさを誇ります。
この鳥居は60年に1度、大工事が行われ、前回は2014年に修復されました。
その際、高さ7.3mの控柱4本と長さ9mの袖實4本を全て取り替え、主柱2本は塗装を綺麗に塗り直しています。

北口本宮冨士浅間神社 大鳥居

この鳥居のド迫力、なかなか伝わりづらいのが写真の難点。
180㎝身長がある方が横に立つと、こんな感じ。
ドでかいはずのお方も、かわいらしくなってしまいます。

北口本宮冨士浅間神社 大鳥居

鳥居の扁額には、「三国第一山」の文字。
この鳥居が「北口本宮浅間神社」のものではなく、富士山の鳥居であることを示しているそうです。
「三国第一山」の三国は、日本、中国、インドを表します。
江戸時代、この三国は世界そのもの。
つまり、「三国第一山」は世界一の山という意味になります。

北口本宮冨士浅間神社 大鳥居 扁額 三国第一山

福地八幡社

「大鳥居」をくぐった左手には、「福地八幡社」。
1740(元文5)年建立で、重要文化財に指定されています。

北口本宮冨士浅間神社 福地八幡社

随神門

凝った彫刻が施された「随神門」は、1736(元文元)年、村上光清らにより再建されたもので、これも重要文化財です。
左右におられる二体の随身様が、御祭神をお守りしています。

北口本宮冨士浅間神社 随神門

扁額の後ろに、大きな額。
描かれているものがほぼ見えませんが、もともとは「天の岩戸」伝説の絵が描かれていたそうです。
色褪せた額が、その歴史の深さを感じさせます。
それにしても、すごい数の千社札。
あんな高いところに、どうやって貼ったんだろう?
と、思わず見上げてしまいます。

千社札 (せんじゃふだ)
寺社仏閣に参拝した記念として貼る自分の名前等を書き込んだ札

北口本宮冨士浅間神社 随神門 千社札

神楽殿

1737(元文2)年、村上光清を中心とした富士講中により建立された「神楽殿」。

北口本宮冨士浅間神社 神楽殿

富士山信仰を支えた御師(おし)が、富士山の神霊に五穀豊穣を願い「太々神楽(だいだいかぐら)」を奉納した舞台です。
明治時代中期以降に神楽は地元の神楽講に継承され、現代でも神社の祭礼には、この舞台で神楽が披露されます。

北口本宮冨士浅間神社 神楽殿

「神楽殿」を見上げると、干支の彫刻。
写真は来年の干支、猪です。
ぜひ、ご自身の干支も探してみてくださいね。

北口本宮冨士浅間神社 神楽殿 干支

手水舎

「神楽殿」の横には、手水舎。
絶え間なく流れ出る霊水は、「泉瑞(せんずい)」と同じ水源から引かれているそうです。

北口本宮冨士浅間神社 手水舎

「泉瑞」は、源頼朝が富士の巻狩の際、富士の山神に祈り岩を鞭打ったところ涌出したとされる湧水地で、富士講の富士八海(内八海)のひとつに数えられます。
残念ながら現在、「泉瑞」の湧水地に水は湧出していませんが、水源は健在で、北口本宮冨士浅間神社では参拝客に冷たい水を届けてくれています。

北口本宮冨士浅間神社 泉瑞

冨士太郎杉

拝殿の左前にそびえる杉は、「冨士太郎杉」。
樹齢は約1000年だそうです。
根回りの太さはどっしりとした21m、樹高約30mの巨体をしっかりと支えています。

北口本宮冨士浅間神社 冨士太郎杉

冨士夫婦檜

拝殿の右前にそびえるのは、「冨士夫婦檜」。
樹高33mの2本の檜は、地上3m付近で1度別れますが、12m付近で再び寄り添っています。
別れてもまた再び出会えるという「縁結び」の木です。
こちらも樹齢は、約1000年と云われています。

北口本宮冨士浅間神社 冨士夫婦檜

そんな巨木なので全体を写すのに一苦労、色々試した結果、遠方からパシャッ!と撮影。
右手前が「冨士夫婦檜」で、左奥が「冨士太郎杉」。

北口本宮冨士浅間神社 冨士夫婦檜と冨士太郎杉

本殿・幣殿・拝殿

「北口本宮冨士浅間神社」では、「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」と夫神様の「彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)」、さらに父神様の「大山祗神(おおやまつみ)」の3柱が祀られています。
御利益は、恋愛成就、縁結び、家庭円満、安産、子育て、開運、金運上昇など。

北口本宮冨士浅間神社 本殿・幣殿・拝殿

欄間や虹梁上には、獅子、龍、獏などの彫刻が余すところなく彫り込まれています。

北口本宮冨士浅間神社 拝殿

唐破風懸魚(けぎょ)は、鳳凰が大きく羽を広げています。
見応えのある装飾です。

北口本宮冨士浅間神社 拝殿

奉納額も数多く飾られ、厚い信仰を受けていることが伺えます。

北口本宮冨士浅間神社 拝殿 奉納額

現在の「本殿」は徳川家康の家臣・鳥居成次(とりい なりつぐ)が1615(元和元)年に建立したものです。
1734(享保19)年には村上光清(こうせい)を中心とした富士講中によりにより修復され、「幣殿」および「拝殿」も彼らによって1739(元文4)年に造営されています。

北口本宮冨士浅間神社 拝殿

それにしても村上光清(こうせい)という方は、すごい人です。
この「北口本宮冨士浅間神社」の殆どの社殿の修復・造営を成し遂げています。
それも1734(享保19)年から1745(延享2)年までのわずか11年間で。
しかも、1740(元文5)年の庚申御縁年に間に合わせるように、主な社殿を仕上げています。
相当、人望があり仕事の出来る殿方だったんでしょうね。

庚申御縁年 (こうしんごえんねん)
富士山は紀元前301年の庚申の年に誕生したと云われ、60年に1度の庚申の年を誕生月として祝う行事


1734年
(享保19)
本殿(修復)
1735年
(享保20)
東宮本殿(修復)
西宮本殿(修復)
1736年
(元文元)
大鳥居(造営)
随身門(造営)
諏訪神社本殿及び大鳥居(造営)
1737年
(元文2)
神楽殿(造営)
1739年
(元文4)
拝殿および幣殿(造営)
1740年
(元文5)
福地八幡社(造営)
1741年
(寛保元)
社務所(造営)
冨士盛稲荷社(造営)
1745年
(延享2)
手水舎(造営)

さて、見どころが盛りだくさんの「北口本宮冨士浅間神社」。
1度ではすべて伝えきれないので、2回に分けて現地レポートします。
レポート後編は、日本武尊とゆかりのあるパワースポット「大塚丘」や「諏訪神社」周辺を散策レポート。


現地レポート後編
北口本宮冨士浅間神社 参道
 
 
 
  • 2018年11月26日
  • 掲載する内容は正確性を心がけておりますが、現地の事情や状況の変化により変更する場合もございます。 お出掛け前に、現地にご確認くださいませ。
 

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  • 所要時間は、道路状況等により変更になることがございます。おおよその目安としてご参考になさってください。
 
 
 
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