ディアナ号やヘダ号に関する資料を中心に、日露交流の始まりとなった出来事を紹介する「戸田造船郷土資料博物館」の現地レポート。

戸田造船郷土資料博物館

2024.4.17 2019.2.20
戸田造船郷土資料博物館

ご案内

  • 日露交流のきっかけとなった出来事を紹介する博物館

今から160年以上前、富士市の沖合で沈没したディアナ号や、日本初の洋式帆船ヘダ号に関する資料を中心に、日露交流の始まりとなった出来事を紹介する博物館です。

日露交流の始まりについて

プチャーチンの来航

ペリー艦隊が帰国してから4カ月後の1854(嘉永7)年10月、ロシアのプチャーチンは、日露和親条約の締結を目的にディアナ号で下田に来航します。

ディアナ号は3本マストの2,000トン級木造帆船で、船長53.33m、幅14.02m、52門の大砲を備え、約500名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦でした。

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安政の大津波

交渉を開始した翌日の1854(嘉永7)年11月4日、突然の大地震と共に大津波が下田湾を襲います。
下田に停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、船体は前後左右に大きく揺れ、30分間に42回転したと伝えられています。
マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、転倒した大砲の下敷きになる者や多数の怪我人が出る惨状でした。

マグニチュード8.4。
房総半島から四国にかけて太平洋沿岸部に津波が発生し、なかでも伊豆から熊野にかけての被害は甚大なものでした。
死者は2~3,000人と云われています。

下田の町は、壊滅状態となっていました。
地震によって津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋はほとんど流失倒壊。
下田の町は、一瞬のうちに消え失せ、海上は壊れた建物や舟で埋まり、死体や板につかまって流される人々であふれたそうです。
溺死者等122人、戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無傷で残ったのはわずか4軒だけでした。

このような災害の中、ロシア側は医師を同行させ、怪我人の手当ての協力を申し出ています。
この厚意に応接係・村垣範正むらがき のりまさは、いたく感服したと伝えられています。

ディアナ号の修理地決定

沈没は免れたものの大破し、遠洋航海が不能になったディアナ号の修理を、プチャーチンは幕府に申し出ました。
幕府は下田、長津呂、網代、稲取といった修理地を提案しましたが、プチャーチンはこれを受け入れず、自ら調査員を派遣して修理地を探した結果、戸田が選定されました。

当時、ロシアは英仏とクリミア戦争(1853–1856)の最中で、敵国の目を避けられる場所を探していました。
岬が海に突き出て三方を山に囲まれた戸田は、行き来する船舶の目につかない、うってつけの場所でした。

当時の戸田は、人口約3,000人、石高820ほどののどかな漁村でした。
安政の地震による被害は、死者30名だったそうです。

ディアナ号の沈没

修理港の決まったディアナ号は、日本船の案内で戸田港へ向かって出港します。
しかし、途中で強風にあおられ駿河湾を漂流した後、宮島村(現・富士市)の三四軒屋沖に坐礁してしまいました。
沈没寸前のディアナ号を、地元の漁船約100隻で戸田まで曳航えいこうしようと試みましたが、約3時間かけて約8㎞移動したところで、浸水が激しく、とうとう沈没してしまいました。

ディアナ号は沈んでしまいましたが、約500名の乗組員たちは、地元の方々の協力によって全員上陸し、荷物も運び出されました。

 
ヘダ号の建造

乗艦を失ったプチャーチンは、直ちに造船を幕府に願い出ました。
修理予定地だった戸田での造船が許可され、日本初の洋式帆船の建造が日露共同で始まりました。
ロシアの技術者と近隣の村々から集まった船大工たちが作業に当たり、彼らは言葉や度量衡制度の違いを乗り越え、わずか3ヵ月で約100トンの帆船を完成させました。
プチャーチンは完成した船を、地元への感謝を込めてヘダ号と名付けました。

尺や寸で図っていた日本人にとってメートルが分からず、また言葉の壁も立ちはだかりました。
会話はオランダ語・英語・日本語、3語それぞれの通訳を通し、ジェスチャーや図解などにも頼って伝えあっていましたが、それでも上手く伝わらず当初はひどく混乱したようです。
そこで、実物大の設計図を作り、それに合わせて材木を切りだして作り上げていきました。

造船の中心となったのは、戸田の船大工7名。
上田寅吉、緒明おあき嘉吉、石原藤蔵、堤藤吉、佐山太郎兵衛、鈴木七助、渡辺金右衛門。
土肥や松崎からも船大工40人が集まり、人夫の数は150人にも達したと云われています。

ディアナ号 ヘダ号
総長 53.33m 24.57m
14.02m 7.02m
排水量 2,000トン 100トン
マスト 3本 2本
乗船人数 約500名 約50名

ヘダ号建造に活躍した船大工たちは、それからの日本造船界の担い手となっていきました。
上田寅吉は、長崎伝習所の第一期生となって勝海舟らと共に学び、オランダにも留学、のちに横須賀造船所の初代職長に就任。
他の船大工たちも、それぞれ洋式船建造技術を買われて、軍艦などの造船の道に進み、活躍しています。
また、ヘダ号と同型船が戸田で6隻、石川島で4隻、建造されています。

ロシア使節団の帰国

造船を指揮する一方、日露交渉も進めていたプチャーチンは、1854年12月21日、下田長楽寺で日露和親条約の締結に至りました。
その後、プチャーチン一行は三陣に別れて帰国します。
第一陣は1855年2月、米国の商船カロライン・フート号を雇い、約150名が帰国。
第二陣は同年の3月、戸田で建造されたヘダ号に乗り、プチャーチンを含めた約50名が帰国。
第三陣は同年の6月、ドイツのグレタ号で帰国の途についた残りの約300名。
しかし彼らは帰国の途中、英国に拿捕だほされ捕虜となってしまいました。
彼らがロシアに送還されたのは、クリミア戦争(1853–1856)が終結した後でした。

ヘダ号はプチャーチン一行をロシアへ送った翌年の1856年、ロシアの軍艦オリヴーツァ号に曳航えいこうされて下田に帰還しました。
その後、1869年の戊辰戦争・箱館戦争で旧幕府軍の輸送船に使われたと云われていますが、その後の消息は分かっていません。

年表

1853年
6月3日
ペリー来航
9月15日 大船建造禁止令を215年ぶりに解除
10月 クリミア戦争開戦
1854年
3月3日
ペリー提督が日米和親条約を締結
日本開国
10月15日 エフィム・プチャーチンがディアナ号で下田に来航
11月3日 プチャーチンと幕府の交渉開始
11月4日 安政の大地震が発生、それによって発生した津波によりディアナ号は大破
11月26日 ディアナ号、日本船の案内で戸田港へ向かって出港
11月27日 ディアナ号、宮島村(現・富士市)で座礁
12月2日 ディアナ号、駿河湾で沈没
12月21日 日露和親条約を締結
12月24日 西洋型船舶ヘダ号の建造開始
1855年
2月25日
ロシア人約150名がアメリカ商船カロライン、フート号で帰国
3月10日 ヘダ号進水
3月22日 ヘダ号出港、プチャーチンを含めた約50名が帰国
6月1日 残りのロシア人約300名がドイツのグレタ号で出港
1887年 プチャーチンの娘、オリガ・プチャーチナ女伯が来日、100ルーブルを戸田に寄付
1954年 ディアナ号の2つあるうちの1つの錨が引き上げられる
のちに「戸田造船郷土資料博物館」に展示
1969年 「戸田造船郷土資料博物館」開館
ソビエト連邦政府から500万円の寄付
1976年 残りの錨も引き上げられ、三四軒屋緑道公園でプチャーチン像とともに展示
1987年 「駿河湾深海生物館」開館

併設の「駿河湾深海生物館」について知りたい方は、
こちらのページで紹介しています。

駿河湾深海生物館

現地レポート

ディアナ号の錨

博物館の入口前には、全長4.78m、幅3.235m、重さ4トンのドでかい錨が展示されています。
これは、宮島村(現・富士市)の三四軒屋沖で沈没したディアナ号の錨で、昭和29年に引き揚げられました。
錨はもう1つあり、富士市の三四軒屋緑道公園にも展示されています。

ディアナ号の錨

ディアナ号に関する資料は、博物館の2階に展示されています。

戸田造船郷土資料博物館
ディアナ号の模型

この模型は大阪万博(1970年)でソ連館に展示されていたものですが、万博後、当時展示品の少なかったこの博物館を心配し、旧ソ連大使のご厚意で寄贈されたものです。
戸田とロシアの深い絆を感じます。

ディアナ号の模型
ヘダ号の模型

この模型も個人から寄贈されたもので、ディアナ号模型と比較し易いように同じ縮尺で作られています。

ヘダ号の模型

ディアナ号船内で使用されていた絨毯や椅子、テーブル。
ディアナ号が沈没する前に、地元の方々の協力によって急いで下ろされた貴重な品々です。

ディアナ号船内で使用されていた絨毯や椅子、テーブル
大工道具

当時の船大工たちが使用していた道具。
日露共同で作業する中、お互いの文化に影響を受け合うこともあったようです。
メートルが分からなかった日本の船大工たちは、何度も製図室に足を運び、専用の定規を自作し、
ロシア人は真っすぐな線を引ける墨壺に大変興味を示したそうです。

戸田造船郷土資料博物館 大工道具

殿方が描かれた個性的な掛け軸は、プチャーチンが士官に描かせた自身の絵です。
我が魂を永久に この地に留めおくべし
という言葉と共に、置いていきました。

異国人との接触に関して「もらうな、やるな(与えるな)、つきあうな」という禁制があった時代に、当時の戸田の方々がどれだけ温情をもって異国人を受け入れたかが伺える出来事です。

戸田造船郷土資料博物館 プチャーチンの掛け軸
弁才船の模型

弁才船は江戸や明治の頃まで日本の海運に広く使われた大型木造帆船で、この模型はヘダ号の建造に参加した船大工さんが製作したものです。

弁才船の模型
ヘダ号の模型

その隣には、本物の図面から1/10スケールで忠実に再現したヘダ号の模型が展示されています。
今にも航海に出れそうな、本格的な造りです。
それもそのはず、この模型も船大工さんが造ったものです。

ヘダ号の模型

博物館の2階から眺めた駿河湾の様子。

雲1つない空と海と富士山!
視界いっぱいに広がる青色の景色は、爽やかな風を届けてくれ、160年以上前、ディアナ号が沈没した海とは思えないほどです。

戸田造船郷土資料博物館から眺めた駿河湾
洋式帆船建造地碑

博物館から約1.5㎞の場所には、「洋式帆船建造地」の石碑があります。
ここはまさに、日本初の洋式帆船ヘダ号が造られた場所です。
ここで異国の技術を習得した船大工たちは、日本の造船技術の近代化に大きく貢献する存在となっていきました。

洋式帆船建造地碑
宝泉寺

ヘダ号が完成するまでの4か月弱、プチャーチンが滞在していた宝泉寺です。
上官などは宝泉寺に滞在し、士官は本善寺に、他の者は付近に長屋4棟を造って戸田村に滞在しました。

宝泉寺

宝泉寺境内には、滞在中に病死した若き水兵2人の墓もあります。

宝泉寺 ロシア水兵2人の墓

「戸田造船郷土資料博物館」には、戸田とロシアの深い絆を感じる貴重な品々が展示されています。
異国人との交流が禁止されていた時代に地元の方々が行った善意が、160年以上たった今でもしっかり息づいています。
同じ日本人として、当時の方々の行為に心を打たれ、温かい気持ちにもなれます。
また、外国人労働者受け入れ問題が山積する今、不安な気持ちもあるかと思いますが、異文化交流について学ぶことが出来る絶好の施設です。

戸田造船郷土資料博物館

併設の「駿河湾深海生物館」も、お見逃しなく。

駿河湾深海生物館
駿河湾深海生物館

基本情報

住所 静岡県沼津市戸田2710-1
TEL 0558-94-2384
お休み 毎週水曜日・祝日の翌日・年末年始
営業時間 9:00~16:30
料金
大人 ¥200
小中学生 ¥100
駐車場 あり(無料)
アクセス

東名沼津ICから約50km(約70分)

サイト ホームページ
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